もっと書きたいんだ。だから…

テクノロジーの発達は喜ばしいことだが、俺が欲しいのはそんなものじゃない。俺が欲しいのは、紙と鉛筆だ。厚さは5mmとまではいかないでも1cmには抑えたい。最適なキーピッチやディスプレイの広さを考えるとB5サイズは必要か。「Harvard Business Review」より少しくらいは重くてもいい。エディターとアウトラインプロセッサーとシンプルなメーラーとシンプルなウェブブラウザーが動き、Wi-Fiで手軽にあちら側につながる。そんなノートパソコンが1万円ぐらいで売りに出されないものかな。

■Life Book & Music Log:

□『AERA 071119』:内田樹がのっていたので。あとパラサイトの新ソースを資料として。
『存在と無 1 現象学的存在論の試み』:届いたけど開梱もしてない。
『大森荘蔵 哲学の見本』:同上
『Mr.Children "HOME"TOUR 2007』:言うまでもなく「Dance Dance Dance」〜「フェイク」〜「Any」、そしてとりわけDisc2がすばらしい。なんか書きたいけれど、書けるような立場にない新参者なので。ただし、編集はいまいちだな。なんか色だしたいのはわかるけれど、そんなにブツブツきらなくても。Liveなんだから、ナマと見紛うような演出が必要だ。

ピンチョンとかコミュニケーションとか。

ABCの人文の平台に、すげーボリウムのある塊がみえたので、ああ今年の「知恵蔵」か、ないしは「imidas」か、と思って、近くにいったら、ピンチョンの"Against the day" だったよ。いまさらながら山形浩生のレヴューと、あらすじを発見して読む限りでは、かなり面白そうなんだけれど、実際に本物を読むとまったく面白くないどころかわけがわからないんだろうなあ。そもそも、それ以前に訳出されるまで生きていられるのかどうかも危ぶまれる。もうだれでもいいので、定年までには少なくとも"Mason & Dixon"はお願いします。こんなときにいつも英語力をつけときゃよかったのに、と悔いるんだけれど、いくら英語力があってもピンチョンは無理だな。ちなみに、「知恵蔵」も「imidas」も今年は発売されませんので間違って、"Against the day"を買わないように。「imidas」まがいのやつは出てるけれど。

ところで。明日ぐらいに、「a」で、コミュニケーション周辺の話を書いてみようと思っているのだけれど、それとは別の軸で、コミュニケーションについて思うところを練習してみる。

そこに共有化された目的合理的な引力が働かない限り、ネットでのコミュニケーションは衆愚におちいるんじゃないだろうか。ほんとうは自分や自分の日常とはとはまったく関係ない他人の話なのに、悪意なくちょっと噛んでおこうかな、と思うアクションが集積していくのがやばい。とたんにネットはTVに変わる。そういった点で、finalvent氏の言うことはよく理解る。
そこで情報発信している人と直接的な関係性がない以上、その人のことは一切わからないし、だから発信内容の真偽さえあやしいわけだ。極端なことを言えば、そこに書かれたテキストはまったくの嘘八百、出鱈目かもしれないし、あえて作者がもつ意見、経験した事実とまったく逆のことが書かれている可能性だってある。
だから、ある日突然、ネット上に出現した名文を評価する軸は、「テキスト」の善し悪し以外のなにものでもない。もちろん感動するのはかまわない。提起された考え方に異論だって唱えたいだろう。しかし、そこに書かれた文章が、あくまでも虚構である、ととらえることができた瞬間に、賛辞の送り方は違ってくるだろうし、課題の立て方も異なってくるはずだ。それこそ抽象化(というかやはり構造化したのちの課題化)して問うということだろう。
そのためには、やはり作者の日常を思い浮かべてはならない。思い浮かべるのは作中人物の日常だ。小説とわかっているから、片山恭一のことなんてまったく思い浮かべないのと同じだ。そういった、ある意味、斜に構えた冷静さが必要なんじゃないだろうか。「作者を批判するのではなく、作者がテキスト上に創出した人物とその虚構、さらに表現技法を批評する」といったきわめて合理的な目的が設定できたら群衆は叡智へと向う。はずだ。これを「作者の死」というにはおこがましいか。というかなかなか行い難い話か。

なぜメモをとるのか。

a-sideでは、「メモの必要性」にちなんで、メモを書くための「動機付けを物的に強制するために、書きやすいペンと書きやすいノートが重要になる、というのはあながち間違ってはいない」なんてことを書いたが、これは私にとって目下の重要問題である。
ノートは、この3年ぐらいは、ストックしておいた「ミケルリウス−miquelrius」の「NOTEBOOK ECO4」を使っている。たしかに、ノートの罫も含めたデザインはかっこうよいのだが、いかんせんエコの極致をいくため用紙の質がかなり悪く、鉛やインクの載りが芳しくない。長く書いているとだんだん意欲が減退してくる。ただし、自家在庫がきれたあとは汎用的な「ミケルリウス」のスパイラルノートが待機しているため、この問題は解決していく(完全に在庫が切れるその後が問題だ。「ミケリウス」を販売しているショップがかなり少なくなってきた)。
頭がいたいのはペンだ。どうも、最近はしっくりこない。いまは、ドクターグリップの4+1というのを使っている。シャープペンシルとボールペンの手軽な組み合わせは確かにかなり便利だが、しょせん普通のボールペンなので書き味がよくない。それこそ大枚をはたいて、セレブリティが持つような万年筆でも買えばいいのだろうけれど、その目的がアクティブで乱暴なメモ書きなので役不足だし、いちいちキャップをはずさなければならないというのは、迅速さが要求される現場においてはノックアウトファクターだ。最近のヒットは、ロットリングのCOREシリーズで、これはアクティブに乱暴に扱ってもよいつくりの万年筆なので、ある一定の期間は重宝した。しかし、わりと短い試用期間でボロボロになってしまったので捨ててしまった。もう廃盤になっているのかもしれないが新たに一本買い求め、これにステッドラーの製図シャープと、ローラーボールのような赤ペンの3本を組み合わせ、持ち歩くのがベストなのだろうか。3本を胸ポケットにいれるのはきついな。

専門性。

A-sideでは能天気に「専門性」みたいなことを書いてみたけれど、じつは、ビジネスにおける文系の専門性というのはあいまいで、属人的だ。ここでもクリエイティブワークの話になるけれど、例えば、ネーミング。もちろん、自動化されたワード収集のしくみをもっていることや、法的なチェックのしくみを構築しているといったことは専門性の話ではあるが、たとえそういったものを整備していたとしても、いわゆるヒットネーミングが必ず生成されるか?というと脆いところはある。うちの会社では、過去これだけのヒットネーミングを作成しています、といったところで、次に最良のアイデアが提出されるかどうかはわからない。当然、過去のエクセレントなネーミング例だって、一発で考案されたものは少なく、それこそ100案の後、絞られた5つの案で、もっとも最良な1案をクライアントとの弁証法的な議論によって、こう変えたものがヒットした、というのもあるだろう。いや、ネーミングなんかの場合は、ほとんどの場合がそうに違いない。もっといえば、事業経営戦略のコンサルティングでもおおむねこういったプロセスでしか成果はなしえない。なかには構造化された思考スキルの汎用的なフレームだけを提示して、べき論で押し切るようなコンサルタントもあるだろうけれど、そうなってしまうと、専門性とはいいにくい。
これを考えると、ビジネス文系の専門化は、技術の構造化・体系化に加え、「共同思考」プロセスの体系化のようなものも必要になってくるということか。いわば、プロジェクト・マネジメントということになるのかもしれないが、「プロジェクト」ではいささか単位が大きすぎる。さらに専門性のひとつの拠り所である唯一性も希薄になる。ビジネス文系の専門化についてはを少し継続的に考えてみよう。

[その他のテーマメモ]
・書原という書店について
ブルース・スプリングスティーンの現在性
浜田省吾のライブレヴュー
・衆愚が起りえるとき
・うれしい再会
『ウェブ時代をゆく』追記。

お礼。

まあ、いろいろと凹むこともあるわけで、そういうのを解消するためには、ブログか本か酒かということになる。家に帰る電車の中では、グラスを片手に、『ウェブ時代をゆく』なんかを、もしくは『また会う日まで』なんかをパラパラやりながら、キーボードをちょこちょこなんて、考えているわけだけれど、最近はめっきり酒に弱くなってしまって、白麒麟ボウモア12年とワイルドターキー8年なんかを飲んでしまうと、もはや読む気も書く気もうせてしまう。もちろん、そのまま寝ちまうのがいいのだけれど、今日は、予想もしない贈り物をもらったので、そのお礼だけ。ほんとうは、メールでも送ってしっかり話をするべきなんだけれど、どのアドレスに送ればよいのかもわからなくなってしまっているので。

えーと、たしかに受け取りました。ありがとうございます。ただし、ぼく自身はヘビーユーザーではないので、あれを買ったことも、もらったことも、使ったこともないので、これからいろいろと学習して、有意義に使わせてもらいます。今回の件については、なんの痕跡も残さなかったし、アクションもしなかったけれど、例によっての危うさも感じながら、ずっと静観させてもらっていてました。それは、あなたのリアルを知らないので、それに対する感情的な意見を表明することは、なんの意味もない、という考え方に基づいていて、それより、驚くべきエクリチュールにに内在する技術や、それこそ趣味趣向について語り合える落ち着いた日々が来るのを待つか、と思っていたわけです(たとえば宮本輝とかね)。これは、ネットでのコミュニケーションというのは、そういった共有目的がある合理的なところからスタートしない限りは、衆愚に陥る可能性が高いのでは、という仮説に基づいて…って、なに書いてんだろおれは。だめだな今日は。いや、ちょっと思うところがあるので、このややこしいことについてはまた書きます。とりあえず、お礼まで。みなさんが善くありますように。また、どこかでお会いできることを楽しみに待ちます。では。アンテナくらいは残しておいてくれてもいいのになあ。

ああ、もう12月だ。

えっ11月だって?いや12月だよ。
レバレッジ・リーディングでも勉強しようかな。

[買った本]
『文藝 笙野頼子特集』:いまさらながら。新人賞もなんとなく話題なので。表にも書いたけれどじつは笙野は、まじめに四手内径童。いまからはじめます。
『新潮 12月号』:今年は、毎月買いました。ひとえに平野啓一郎の引力。いまこの日本に散乱するあらゆるエクリチュールをあぶりだそうとする試みに拍手を送りたい。ブログの筆致とのギャップも面白い。ところで、冒頭の田中慎弥はなんか面白そうだ。
『ウェブ時代をゆく』:結局3部作を全部買うことになった。
◎『週刊新潮』:なんで買ったんだろう。体が床屋談義を望んでいたからだろうか。やっぱり人間なんで、陰謀説に弱いのだろうか。

[たぶんアマゾン貯金で買う]
『存在と無 1 現象学的存在論の試み』
『大森荘蔵 哲学の見本』
『エレガントな解答』:娘が自分の小遣いで買ってくれればよいのだけれど。

ほんとうなら、ちょっと悲しい。

世の中のSIerという企業体(の経営者)がほんとうに「バカに金を出させて仕事をしないで責任を顧客か下請けに押し付ける」というスピリットで駆動しているのであれば、これはもうビジネス・ビッグバンの最悪の成果としかいいようがない。この歴史の浅いビジネスにおいて自己責任とか自己実現とか能力主義とかあげくのはてに「世界に等しく情報を」とか言いながら掲げられた体のいいミッションは、ようは直接的に短期的に大量にキャッシュだけを獲得しようという運動を膜に包むだけのスローガンでしかなかったということだ。こういったことは業界を問わず、ごくあたりまえの基本姿勢じゃないか、という声もあるが、私はそういった心根を露骨にあらわすビジネスピープルに一度も遭遇したことはない。幸か不幸か。ああ、そういえば、確かにやり逃げを正当化するような取引先があってクライアントへの翻訳にたいへん苦労したことがあるが、やはりそれは残念ながらSIPSの黎明期の企業だった。しかし、そういったまれな例は別として、to Bにおいて、ほとんどの場合、関与者が最終的な顧客(多くの場合が一般的な生活者)とのバランスのとれた交換に向ってバリュー・チェーンの最適化に骨身を削っている姿を目の当たりにすることが多かった。そういった点では、増田の言う世界は、ITビジネス特有のものなのだろうか。これがほんとうの実態なのだろうか。ごく一部の劣化した企業(経営者)だけではないのだろうか。
やはり「商売」の原点は、「信頼」の交換であり、「長い愛顧」から新しい発想がうまれてくるものであり、それらは「共有された最終目的」に向ってドライブしていくものであって欲しいし、かつ、それだけでなんとか喰っていけるだけの「商売」はやっていける、と思いたい。甘いといわれてもそんなふうにしかできないんだ。