専門性。

▶ビジネス系の過去のAサイドのエントリーをこちらで少し固めてみる。

こういった仕事で、個人のキャリアにおける成果をあげようと思えば、「専門バカ」にならなければならない。「専門バカ」なんて言い方は何かと誤解を招きがちだが、ここで言いたいのは、一度は「専門バカ」にまで降りていくといった経験がないとだめだということだ。そのときの分野は問わない。コピー・ライティングでもいいし、WEBでもいいし、編集でもいい。もちろん、カスタマー・インサイトでもいいし、プロジェクト・マネジメントでもいい。特定の分野における製品知識でもかまわない。また、キャリア形成において時間的余裕があり、しっかりバカといわれる領域まで降下できて、かつそこから浮上できるのなら、べつに一度でなくても、何度でも専門バカになったっていい。さらに、そこで特定の専門性の魅力に気づいたのであれば、ジェネラルの世界に浮上できなくなったって、そのひとつの道にまい進することを心から応援する。ただし、いま、その領域に踏み入れたことのない人にとってみれば、気の遠くなるような勤勉が必要になるのは言うまでもない。

なぜ「専門性」が必要なのか。ひとつは、そこまで大量の情報を身の回りにおき、そのことだけを集中して何時間も何日も、寝食を惜しんで、深く深く考え続けてはじめて見えてくるものがきっとあるはずだし、逆に、そこまでしなければ見えないものも必ずある。そこで見えたものでなければ、自家薬籠中のものとして語れない。自家薬籠中のものとして語れなければ、オフィシャルの場で語る意味はまったくない。そして、そこまでしなければ見えないものしか世の中では通用しない、というぐらいに思っておく必要がある。コミュニケーション産業の周辺はかなり高度化している。

「我々としては、そういうことは概念だけ知っていればよく、あとはプロに任せたらいいのだ」とう人もいる。もちろん、そういう生き方もある。しかし、この箴言には慎重に向きあわなければならない。まず、そういう言い方をする以上は、引っ張りだしてくるプロを質的にも量的にも大量に抱えているメタプロにならねばならない。しかし、仲良し倶楽部ではないわけだから、自分自身にある程度専門的な知見がない限りは有効なネットワークはついてこない。最強のメタプロでもないのに、あれもこれもプロに任せすぎたため、結局は自分の中で、より実践的な専門性がひとつも形成されず、人がいなければ、結局なにもできなくなってしまった、という人を私は何人も見てきている。

いやいや、こういった仕事は人の塊というチームでやるもので、そこでのリーダーシップがうまく発揮できればいいんだろ、という声も聞こえてくる。先の「概念だけ…」にしても「チームで…」にしても、いまや美談としてセオリー化しているが、その美談の影に隠れた意味にしっかり気づく必要がある。チームというのは原則として、目的にむかって合理的にことをなす集団である。トレーニング中のジュニアを除いて、その目的達成に対しなんらかの知見のあるメンバー、つまり専門性のあるメンバーで形成されていなければチームを組んでいる意味がない。そして、そういったメンバー5人で、2×3×5×2×4の相乗的な力が発揮されたとしても、最終的にそこに0が乗算されれば0になるのだ。このことを忘れてはならない。チームを組むときに、あいつはこの分野の専門としていれておきたい、という評判が社内外で囁かれる程度の専門性は身につけアピールしておきたいものだ。ジェネラルなリーダーではあるが、じつはあの分野とあの分野についてはかなり深い、といわれるディレクターなりプロデューサーというのが、というのが理想的ではある。

「専門性」が必要な二つ目の理由。正確に言うと「専門性」を何が何でも身につけなければならない二つ目の理由は、これまで専門的と思われていたことが、加速度的にコモディティ化しているからだ。総表現時代。総学習時代というのもあるかもしれない。

顕著なのは、コピーライティングか。ちょっとした巧みな文章をかける人は、ほんとうにたくさんいる。そういったなかで、専門性の高いコピーとはどういったものなのか。定義はもとより、具体的な技術で総表現を凌駕するようなコピーライティングを鍛錬していかなければならない。ある商品を前にして、ヘッドラインはもとよりボディコピーにおいても誰でもが書けるような自動化された文章を書いてしまうことにつねに恐れを感じなければならない。
差別化のためにどうすればいいのか。悟性的なるものは重要だ。しかし、感性的なるものも欠かせない。前者については、ファクト収集力・把握力、仮説力そして構造力に磨きをかけることだ。つまり、こういったことを伝えなければならないからこのコピー要素が必要なのだ、ということをしっかり議論できるコピーでしか、競合他社とも一般人とも差別化できない、ということだ。後者については、気のきいた語彙をたくさんストックしておく、というのは確かにある。もちろんそれはテレビで誰かが言っていたようないかしたクリシェではない。テレビ漬けになっていると、無意識のうちに盲従的に、そういった言葉を使ってしまうので注意が必要だ。
もはや、こたえは一つしかない。この日本において書かれたものを読みまくるしかないのだ。そして、普段から書きまくる習慣をつけるしかない。しかし、なにより重要なのは(「何を言う」かは揺ぎなく論理づけたうえで、かつリーダビリティは前提として)、「どう言うか」の部分について、自分らしさを出してみたいという意志に徹底して執着することだ。なにか流されずに(「なにか」の中での、いちばんのエネミーは自分だ)、新しいファクト、新しい仮説、新しい表現に固執することを繰り返すことでしか、差別化できるコピーは生まれないし、それがないとそもそもコピーライティングなんて、まったく面白くない。

マーケティング知識なんていうのも同じだ。たとえば、クライアントのマネージャーの元には、そういった知識は、受動的とはいえ、彼のもとに集う広告代理店、マーケティング会社、経営コンサルタントからまるで上納されるかのようにたくさん集まってくる。私たちが学習の手綱を緩めれば、あっという間にクライアントと話ができなくなる。つねに、能動的に新しい理論を仕入れること。それを実践できるフレームワークにオリジナリティを加味してブレイクダウンしておくこと。もし、ある程度の高みを目指すなら、こういったことをストレスをかけて実行していかなければならない。
私が、よく言う「つねに、新しいものを目指すべきだ」という号令の真意はこういうことだ。

もちろん、どの分野で専門的になるのか、ということを発見し意志を固めるのはかなり難しいとは思う。しかし、探す意志、目指す意志をつねにもたなければ、いつまでたってもことは進まない。肩肘をはらずに、波に乗るような気分で、そういった専門性へのアンテナを張ることができて、見つけたときは一気に深みに入っていける。そんなふうなのが理想なのだけれど。