ピンチョンとかコミュニケーションとか。

ABCの人文の平台に、すげーボリウムのある塊がみえたので、ああ今年の「知恵蔵」か、ないしは「imidas」か、と思って、近くにいったら、ピンチョンの"Against the day" だったよ。いまさらながら山形浩生のレヴューと、あらすじを発見して読む限りでは、かなり面白そうなんだけれど、実際に本物を読むとまったく面白くないどころかわけがわからないんだろうなあ。そもそも、それ以前に訳出されるまで生きていられるのかどうかも危ぶまれる。もうだれでもいいので、定年までには少なくとも"Mason & Dixon"はお願いします。こんなときにいつも英語力をつけときゃよかったのに、と悔いるんだけれど、いくら英語力があってもピンチョンは無理だな。ちなみに、「知恵蔵」も「imidas」も今年は発売されませんので間違って、"Against the day"を買わないように。「imidas」まがいのやつは出てるけれど。

ところで。明日ぐらいに、「a」で、コミュニケーション周辺の話を書いてみようと思っているのだけれど、それとは別の軸で、コミュニケーションについて思うところを練習してみる。

そこに共有化された目的合理的な引力が働かない限り、ネットでのコミュニケーションは衆愚におちいるんじゃないだろうか。ほんとうは自分や自分の日常とはとはまったく関係ない他人の話なのに、悪意なくちょっと噛んでおこうかな、と思うアクションが集積していくのがやばい。とたんにネットはTVに変わる。そういった点で、finalvent氏の言うことはよく理解る。
そこで情報発信している人と直接的な関係性がない以上、その人のことは一切わからないし、だから発信内容の真偽さえあやしいわけだ。極端なことを言えば、そこに書かれたテキストはまったくの嘘八百、出鱈目かもしれないし、あえて作者がもつ意見、経験した事実とまったく逆のことが書かれている可能性だってある。
だから、ある日突然、ネット上に出現した名文を評価する軸は、「テキスト」の善し悪し以外のなにものでもない。もちろん感動するのはかまわない。提起された考え方に異論だって唱えたいだろう。しかし、そこに書かれた文章が、あくまでも虚構である、ととらえることができた瞬間に、賛辞の送り方は違ってくるだろうし、課題の立て方も異なってくるはずだ。それこそ抽象化(というかやはり構造化したのちの課題化)して問うということだろう。
そのためには、やはり作者の日常を思い浮かべてはならない。思い浮かべるのは作中人物の日常だ。小説とわかっているから、片山恭一のことなんてまったく思い浮かべないのと同じだ。そういった、ある意味、斜に構えた冷静さが必要なんじゃないだろうか。「作者を批判するのではなく、作者がテキスト上に創出した人物とその虚構、さらに表現技法を批評する」といったきわめて合理的な目的が設定できたら群衆は叡智へと向う。はずだ。これを「作者の死」というにはおこがましいか。というかなかなか行い難い話か。