村上春樹とスプリングスティーン。

村上春樹スプリングスティーンについて、これほど明るくかつ執心だったとは驚きだ。アメリカという国に対してつねに一定の距離感を保っているだけあって、ブルースの存在程度は気に留めているだろうとは思っていたが、『意味がなければスイングはない』スプリングスティーン評(というかエッセイ)を読む限りでは、どうやら過去もそして今もかなり正確にブルースを追跡し続けているみたいだ。

『BORN IN THE U.S.A』インパクトについて、またロックンロールの歴史における『BORN TO RUN』についての評価については、とくにブルースのファンでなくてもアメリカン・ロックを聴き続けている人であればある程度は話せる。ただし一方で、そういう人ですら、ブルースは『BORN IN THE U.S.A』で終わった歌い手と思っている人も多く、その後のブルースの具体的な創作活動についてはほとんど気をとめていないのが現実的なところだろう。

しかし、村上春樹は、たんにロック好きな人、アメリカ好きな人がもつ以上の関心を、ブルースにもっていることを、このエッセイのいくつかの具体的な例示が示している(もちろん、これまでぼくが村上春樹のより個人的な趣味にあまり関心を寄せていなかっただけで、村上春樹業界では有名な話かもしれないが)。

たとえば、「HUNGRY HEART」がコンサートでは冒頭から必ず大合唱になるその鳥肌感。しかし歌詞はみんなで明るく大合唱するようなしろものではなくタフでヘヴィな物語であること。『BORN IN THE U.S.A』のインパクトだけでなくその背景と弊害。けっして悪くないとはしつつも『BORN IN THE U.S.A』以降の「音楽的試行錯誤」を如実にあらわす2枚のアルバム『HUMAN TOUCH』、『LUCKY TWON』の存在。真の「BORN IN THE U.S.A」は『TRACKS』に収められているバージョンであること。マックス・ワインバーグのドラミングとロイ・ビタンのリフ。そしてなにより、より深化したブルースを理解するために『The Rising』こそをぜひ聴いてほしいとする立場。
例によって、彼流の巧みな修飾により語られるブルースへの賛辞は、すべて正しい。

この文章を読んだとき、ぼくはようやくブルースについて語り合うことのできる友人をみつけたような気分になった。実際に語り合うことはできないわけだから、夢から覚めないといけないのだが、いま、自分の身近でブルース・スプリングスティーンについて話せる人はまったくといっていいほどいなくて、そればかりか、ほとんどの人がブルースを知らない、というかなり深刻な事態がおとずれているなかでは、かなり気分のいい幻想ではある。

当然なんだけれど、村上春樹は、このエッセイにおいて、同じワーキング・クラス・ヒーローとしてレイモンド・カーヴァーをブルースを並べながら話を進めている。もちろん彼は「ヒーロー」といった安易な言葉を使うことはなく、ふたりの物語にある共通性を、ワーキング・クラスの閉塞感がもたらした「bleakness=荒ぶれた心」という、これもまた巧みなコンセプトに求めている。

辞書的には「わびしい、気のめいるような、そっけない、〈見通しなどが〉暗い 」「吹きさらしの、荒涼とした、〈風・天候が〉寒々とした」という意味でしかない「bleakness」を心の問題にしてしまうのは、訳のうまさだけではなく、カーバーとブルースの物語性こそがなせるわざともいえる。

その物語性を、これまた村上春樹は「物語の開放性=wide-openess」と称しており、安易な結論づけを拒み、読み手に考え込ませ当惑に近いものを残してしまう、つまりに聴衆と読者に真剣に考えさせてしまうストーリー・テリングの強力さを高く評価している。それは、けっして、レトリックやシンボルが意味するところをあれこれ憶測するといったことではなく、もちろんテーマやモチーフを明らかにしていくような勘ぐりでもない、もっとシンプルで深みのある思考性のことだ。

村上春樹が名言しているわけではないが、おそらく「Into The fire」*1における消防士のそのときの志や家族への想い、「Paradise」*2におけるテロリストの苦悩や逡巡に、一度、あなたも同化して考えてみよ、それはあなたの心の中のどの部分をしめ、あなたの心をどう揺さぶるのか?安易な受け売りを意見とせず、もう一度自分で考えてみよ、という問いに違いない。

問いとして十分な力を発揮するためには、圧倒的に「具体的で」リアルな物語が必要であり、これが描けるのが、この二人の人間的なアーティストということだ。
「物語の開放性=wide-openess」については、村上自身も強く意識しているわけで、このフィルターを通して、彼の作品を見てみれば、安易に「わからない」とか「答えがない」といった評価はくだせないこともよくわかる。

話を戻すと、「bleakness=荒ぶれた心」といった課題をワーキング・クラスの固有の階層的問題にとどめることなく、より広範囲な普遍的な「世界的なパースペクティブ」のなかで捉え、「救済の物語」へ昇華させるための「芸術的な転換」を、ふたりは80年代以降、試行/思考してきたという読み方は、もうこれ以上ないというほど正しく、その答えが『The Rising』と「『大聖堂』にこめられたビジョン」にあるというのは、ほんとうに腑に落ちる解説だ。

ともあれ、もしあなたがブルース・スプリングスティーンのファンで、12月に発売される『明日なき暴走30周年記念盤』とか、ソロアコースティックツアーのDVD『ストーリーテラーズ』(なんというタイトル!)を心待ちにしているなら、この村上春樹の想いにふれておいて損はない。ぜひ。


なお『意味がなければスイングはない』でとりあげられているアーティスト楽曲は、ブライアン・ウィルソンくるりにしても青山真治にしてもなぜなんだ)、スタン・ゲッツウディ・ガスリー、「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850など。2003年から2005年まで『ステレオ・サウンド』連載されていた音楽エッセイをまとめたものである。

*1:『The Rising』所収

*2:The Rising』所収