BURUTS、早稲田文学。

例によってテーマ名と体裁だけに衒われて「BRUTUS」恒例の映画特集を買ってしまったわけだが、確かに着眼的は面白くて、たとえば浅野忠信がチンギスハンとなる映画『MONGOL』を撮っているなんて知らなかったし、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』なんてのは、たいへん興味深い情報ではある。が、いかんせん、「まあ載せておけばいいじゃん」程度の浅さはあいかわらずで、なんか「BRUTUS」って雑誌は、言葉により物事を伝えるって行為をナメてるのか、あきらめてるのか、そもそも基礎教育が必要なのか、ようわからんくなってきた。


それなら第2特集である「シングルモルトウィスキーが云々…」のほうが、合同広告記事っぽくあるぶん、必死さが感じられて、シングルモルト初級者には、たいへんに役に立つ。「ボウモア」とか「ラフロイグ」だけでなく、正月には思い切って「山崎25年」なんてのを買ってみようか、とか思わせるわけだ。いや、ここはうそで「山崎25年」は84,000円もするから、さすがに特赦でもない限りは大枚に過ぎるので、「余市15年」程度におさえて……といった情報がわかるだけも価値はある。


まあ、雑誌の役目は情報を仕入れるだけのものか?という議論はあるかもしれないが、しょせんここ数年の「BRURUS」なんかは、そのためだけにある雑誌ということがわかっているだけに、この情報の脆弱さは致命的な気もする。情報、じゃないか。やはりテキスト発想の脆弱さということだろう。一発ヘッドラインだけがうまいところは、まるで80年代の広告そっくりだ。

じゃあ、テキストを重視して、これでもかあれでもかとテキスト中心で雑誌を創ればよいものになるか?というとこれもまた難しい話で、それはフリーペーパーとして新しく生まれ変わった「早稲田文学」が、よい教科書になる。と、振ってはみたけれど、「早稲田文学」が新しくなったことが良いのか悪いのかよくわからない。たしかに、これだけの書き手と情報をそろえてフリーというのは、そこいらのフリーとはひと味違う。だからといって、これが200円なら買う?と聞かれれば、買わないと思う。いや待て、レジ横にホワイトバンドのように積み上げられていて、そのとき、右手に小銭じゃらじゃらしていたら買うか。と、いったように逡巡してしまうのは、書き手がネオ文壇の仲間っぽくて、なんだかAltでないからなのか?いや、以前だってそうだったんだから、そんな理由じゃない。おそらく全体が細切れすぎて割愛ムードだから、ということに違いない。全体的に軽い趣で迫ってきた割には内容は濃く、しかし濃いにもかかわらず、議論の途中で「はい、さよなら」されてしまうような寂寥感。これが、きっと正しい。いつものように、急がず、もっとゆっくり語ってほしい、ということだ。たとえば、『波状言論S改』のように他愛もなくだらだらと分厚く。
ということは、結局は、フリーペーパーというメディア/場とのミスマッチということか。

うーん。でも待て。こいつら喋り出すと際限ないから、これくらいでストップかけるのがいいのかもしれない。うーん。

ひとつだけ確実にいえることは、図案家が気負いすぎて、エディトリアル・デザインの基礎知識を逸脱してしまっているところだろう。これらテキストを、これらユーザービリティを置き去りにしたデザインで、「面白いデザインでしょ、ぜひ読んでくださいよ」というのは相当無理がある。斉藤美奈子のテキストですら、途中で読むのが、やになっちまったよ。大西巨人の小説なんて写真のうえに乗せてくださるな。先ほど、くさした、グラフィカル・マガジンの草分けであり雄である「BRUTUS」ですら、最低限のルールはわきまえているぜ。

おい、これが結論か。しょぼいな。

まあまあ、「早稲田文学」は、なんだかんだっても面白いので、どっかで見つけてください。なんでもカフェでも手に入るらしいですよ。