最良のBLOG。


なんの情報価値もないのだけれど、こんな広告でも垂れ流さなければ経費を贖えないのですよ、というのなら、あと100円か200円購読料金をあげてもらってもよいので、曳き船にのせられた偽芸術をのせるのはもうやめてほしい。って思ったけど、これはこれで喜ぶ生活者も多いんだろうなあ。ただなあ、朝日だからなあ。参加しているクライアント企業も仲間内っぽいしなあ。まあ、仲間じゃない人たちはわかってるわけだから、どーでもいい話か。そもそも、そんなにたいした情報がある製品でもないからこの程度のコミュニケーションでも充分なわけだ。なら、広告なんて打つ必要ないのかもしれないけど、像づくりのための必要悪ってことかな。でも、だいたいにおいて新聞社主催のお祭り企画ってのは広告の基本的な機能をスポイルしてしまうことが多いね。いやほんと、どーでもいい話なんだけどね。


それはさておき本題。


まるで、村上春樹の原石でもあるかのように微笑ましく慎ましやかな比喩表現。書く書くといっておきながら書かないだらしなさ。日常で目に入る微細な出来事をいかにもたいそうに着眼し拡大する手腕。全体を霧のようにおおう不安感と哀愁。今日こそは更新されているか?と読みにいくと確かに更新はされているのだが、前回のフリにはいっさいこたえておらず事態はいっこうに進んでおらず、だからといってがっかりしたかというとそんなことはなく、しっかりエクスキューズもしているので、それはそれで許してしまいたくなるような謙虚さ。なにより、肩肘はらない自然な文体。全部読んでもいいし、全部読まなくいいし、まあどうでもよいよ、と許されているようなゆるい感覚。結局は語りたかったことのほとんどが語りえなかった終結について、われわれ読み手の不満より、書き手の落胆を心配させてしまうようなダメ人間ぶり。そして、もう続編が書かれることはないという事実。

役に立つ情報や共感できる主張は書かれていないけれど、毎日更新されているか気になるBLOGはほんとうにたくさんある。結局は、語り口のていねいさや読み手への気遣いといった文体の魅力がポイントになるんだろうけれど、これもそのひとつ。というか群を抜いて親しみやすい。


作者は、じつは知り合いの女性の縊死や、がんで余命が限られたこれもまた女性の友人というかなりシビアな問題をかかえており、そのことについて、なにがしかの考えを書いておきたいのだが、当然のことながらこういった深刻な難題を文字に残していくのはタフな作業であり、なかなかうまくいかない。周辺のどうでもよい話から初めて核心に迫ろうとするのだが、ほぼ毎回といっていいほど頓挫してしまう。その周辺のどうでもいい話すら進捗もしない(たとえば、雷がきそうな暗雲が、雷がくることもなく毎日のくらしに垂れ込め続ける)。もちろん妙にはりきって明るくふるまうといった嘘っぽいこともなく、基本的には、その重大で苛烈な出来事がふだんの暮らしのほとんどを占めていて、ときとして決定的な悲哀として目覚める。こう書くと、なんだかとてもウェットな話ではないかと思えるのだが、大仰ではない言葉とドライな文体が重さを軽減して、「いえいえ、気軽に読んでくださいよ」と主張しているようにみえるが、これは、たぶん作者のもつ厭世観とか逆の楽天観がうまい具合に調合されているからに違いない。


そのタイトルは『不運な女』。作者はリチャード・ブローディガン。自尽の2年ほど前に、日本製の大学ノートで数日ごとに更新されていたフィクショナルな日記であり、もしいま彼が生きていたとしたら、きっとあちこち放浪した先のネットカフェで半ば酩酊しながら、weblogとして書き上げられ公開されていたに違いない。遺品から救い上げられたこのノートが、見方によっては、彼のもっとも安定した小説かもしれないという気がした。