『ウェブ時代をゆく』−長文の追記。

※思うところあって、二重投稿

世の中には、いかんなくネガティブパワーを発揮する人がいるが、そういう人と2〜3時間ほど打合せをしていると、こちらが瘴気にあてられる。打合せが終わった後、自分がなんともいえないしかめっ面をしているのが、鏡なんかみなくても、そのこわ張り方でわかるし、身体に注入された負のエネルギーは、ひどい場合は1日2日身体から抜けない。場合によっては、その影響力をフィジカル面にも行使することだってある。当のパワーの持ち主自身は、それを自身の生きる源泉として物事を遂行していくことが身体になじんでいて、どんどん拡大再生産を繰り返すわけだが、まわりの人間はたまったものではない。

そんな暗黒面のフォースから逃れたいときに『ウェブ時代をゆく』を開いてみる、というのはあまりに短絡で安直だろうか。「好きを貫けアジテーションへの反応」のように盲目的すぎるだろうか。
しかし、Mr.ChidrenのライブDVDを見たあと『ウェブ時代をゆく』を眺めたとき「おい梅田、なんて小せえんだ」と思い、『ウェブ時代をゆく』を読んだあとMr.ChidrenのライブDVDをみたとき「おい桜井、もっと現実を見よ」と思えるようなオルタナティブなバランス感覚さえもてれば、その盲従は咎められるほどのことでもないだろう。たとえがマズいな。いや、まあそんなややこしいことを考えなくても、斜にかまえていても別になんの得もないわけだから、まずは梅田望夫のコンセプトをしっかり受け止めてみよう。

たしかに、エネルギーを充填できる教えをまとめた本はほかにもたくさんある。それは、精神論的なものであったり、同じ職業や立場として課題をわかちあえたり、問題解決のためのフレームをあたえてくれたりするもので、ぼくの場合は、ビジネス面においてはドラッカーやオグルビーや金井壽宏や伊丹敬之や平川克美であったりする。もちろん、「追認」によりエネルギーを回復できることもあるが、ここにあげたような人たちは、それまであまり考えたこともなかったような「コンセプト」を提示することにより、ぼくを考えさせることも含めて刺激を注入してくれる。
より未知のコンセプト、それはまだ完成しているとはいえないかもしれないが、梅田の思考にはその足がかりがある。完成させるのは、きっと創発された読者ということなのだろう。

もちろん『ウェブ時代をゆく』で紹介されているのは、すべて梅田が発明したコンセプトというわけではないが、梅田フィルターで集められたものも含めて、どちらかというとあまり取りざたされそうもないものを拾っておく。

■Only the Paranoid Survive
「病的なまでに心配性の人だけが生き残る」。インテルアンディ・グローブの言葉。その言葉だけをとってみれば、これは自分と考えを一にしているという点で追認となる。ぼく自身も相当な心配性で、日夜マズいことにならないためには、どうしたらいいのか、どこまでやったらいいのか、というオブセッションに頭を抱え、やらなくてもいいこところまで手間と時間をかけてしまう。そのおかげもあって、大きな成功なんてほど遠いが、まあなんとかやっていけている。
また、これまで、優秀営業パーソンのヒアリングを相当数こなしてきたが、そこで明確になったひとつの共通項も「心配症でビビり」である。彼らは「顧客が、どこか別の競合社と話しているんじゃないだろうか」「顧客と2日間あっていないけれど心変わりしているんじゃないだろうか」「今日、顧客に出した提案書の社内での評価はダメだったんじゃないか」と、まさにパラノイアのように最悪の結果を始終妄想し、(電話では気が引けるので)何か反応を起こすためにメールや手紙を送ったり、用もないのに先方の事務所に行ってみたり、要求もないのに別の切り口の提案書もっていったりと顧客につきまとう。結果的にそれらの行動が、顧客の眼には慮りや熱心さに写ったり、なんやかや対話をおこなう時間がふえたり、提案が勝手にブラッシュアップされていくことで、多くの発注を獲得するにいたる。営業面での成功法則。書かれた言葉だけをとってみれば、そういうことだ。

しかし、梅田はそこに新しい息を吹き込んだ。病的に心配性であるべきなのは「自らのコモディティ化」なのだ、と。最初はすばらしいといわれていたことでも、発注者との関係が数年も続くとごくあたりまえになってくる。コストダウンなども含めて、価値を「月並み化」させていく引力が働くわけだが、これは取引上しかたのないことだ。
そのときに、コストダウンについて防戦をはることも重要かもしれないが、同じエネルギーを新しい技法と思考の開発に振り向けたほうが建設的だし、なにより、企画の受注を生業とするような会社(人)のほんとうの仕事は、クライアントの思考がおよびもしない新しい方法を提起していくところにあるわけで、これを考えれば、少しでもコストダウン要請が働いた瞬間に、価値は終わった、と俊敏に反応する必要があるかもしれない。自分はコモディティ化していないか?自分の作成している企画書はコモディティ化していないか?自分がいつも語ることはコモディティ化していないか?といったことをつねに内省しなければならないし、誰かが知っていて自分が知らないことがあるのなら、自分の知識がコモディティ化しはじめている兆候ではないか、と疑わなければならないだろう。

■「知的生産」の成果とは「書くこと」
「本を読むという高度に知的な行為もアウトプットがないなら「知的消費」に過ぎず「知的生産」ではない」。梅棹忠夫の話。『夜はまだ明けぬか』を最後にもうかれこれ20年以上、梅棹の著作を読み返していない。そういえば『日本語と事務革命』なんて色ものっぽい本も、なにかのタイミングで入手していて放置したきりだった。『情報論ノート―編集・展示・デザイン』なんてわくわくするタイトルの本も、きっとどこかに死蔵されているはずだ。梅棹を思い出させてくれた、梅田に深謝しながら、探して読み返してみよう……。といったような動機づけは、梅田が書いてくれなければ発動されなかっただろうし、ぼくも梅田の本をただ読み流すだけでは、梅棹を再ブックマークすることもなかっただろう。「知的生産」とまでもいかない、ほんのささやかなことに過ぎないが、書くことで生まれることは確かにある。

■新しい職業
自分の職業を人に話すとき、うまく説明できないことが多くなってきた。ぼくの仕事は言ってしまえば、広告・プロモーションやマーケティング周辺のなんでも屋なんだけれど、なんでも屋風情にもかかわらず、十数年なんとかやっていけているのは、それなりの需要価値があるということかもしれないが、一方で、この5年間くらいのスパンでみてみると、市場(需要)にあわせて、それが意図的にか環境に適応するための変態かは別として、仕事の内容は変質し、レンジも大きく広がっている。梅田が言うような仕事ほど、スケールの大きいものではないが、確実に「新しい仕事」化している。きっと、このタイミングで、自分の仕事は何なのかというのを考えてみることが必要なのだろう。仕事の内容を棚卸し、構造化し、定義してみる。その定義がうまくいけば、新しい価値を創り出すことができるかもしれない。もちろん「コンセプター」なんて怪しげで地に足のついていない定義はまったくダメだけれど。

梅田はさらにたたみかけるように、「新しい職業」に必要なものとしてウェブ・リテラシーを掲げている。ただし、それは一般に想起できるような「リテラシー」なんてものでなく、「ウェブで何かを表現したいと思ったらすぐにそれができるくらいまでのサイト構築能力を身につけている」といった、きわめてハードルの高いものだ。初見では、さすがに「梅田とおれでは完全に脳のつくりが違うや」と本を閉じかけたが、よくよく考えてみれば、ほんの数年前までは、パソコンを前にした記述法なんかは、まったく想像もつかなかったのに、そこそこ使えるようにはなっている。そう考えたとき、ウェブが新しいノートと鉛筆になるんだよ、と言われたなら、これはもう勉強せざるをえない。彼が掲げている4つをすべて習熟することは、無理としても(1)と(2)くらいはなんとかしたいところだ。

■志向性の共同体
梅田自身もこのことについてはややユートピア的に位置づけているように感じる。現実的に、いま居る仕事環境は、おおむね「志向性の共同体」といえなくはない。多くの人がそう感じるだろう。ただし、それが理想的に機能しているか?というと、かなり改善の余地がある。「これが明確に志向性の共同体なんだ」と思えるには、やはり「文系のオープンソースの道具」が欲しい。というか、文系的仕事におけるオープンソースとは、具体的にどういったものなのか、について10個ぐらい事例を固めてみないとならないだろうと思う。社内のブログとかSNSが、なかなか活性化しなかったり、(ぼくだけかもしれないが)仕事において人力検索なんかを積極的につかう気がおきないところみると、道具の完成度に加えて、やはり、理系の場合と同じく「人生をうずめている」仕切りとか目利きみたいな人間が必要なのではないか、と思う。自分が人生うずめろよ、って話かもしれないけれど。

■自助の精神
数年前なら自己責任なんていやらしい言葉に埋没して、発見されることのできなかった発想だ。その当時だって、もちろんいまだって、自己責任に萎える気持ちを軽くしてくれるツールはない。自己責任ってどうすればいいんだ?という質問に対する回答はおおむねネガティブなものしかないだろう。しかし、「自助」ってどうすればいいんだ?という問いには「勤勉の継続」というシンプルで強力で建設的な解がある。これはすばらしい。

■世界の不平等の是正に取り組む新しい仕事
ビル・ゲイツがこんなこと言っているなんて。いや、これはどうころんでも自分には関係のない話なんだけれど、一生に一度くらいは言ってみたいなあ、と思ってメモ。

以上。梅田さん、解釈が違っていたらごめんなさい。