タカハシゲンイチロウ・グレーテストヒッツ!

あの「ポラーノ」と、この「ポラーノ」はどう違うのか?たまたま整理中の本棚からちくま文庫『宮沢賢治全集 7』が発掘されたので、読み比べてみた。でも、いっこうにわからない。たとえば、この「ポラーノ」は、あの「ポラーノ」のどこかの一文をモチーフにしていて、同じ一文がこの「ポラーノ」にもあるのだが、僕が見落としているだけなのか?もしくは、「ポラーノ」という言葉の印象だけでイメージを拡げた?たしかに「ポラーノ」って、言葉としては印象きつい。でも、ここまでイメージを拡げるには、きっとあの「ポラーノ」を何十回も読んだうえで、この「ポラーノ」を何十通りも書かないと、納得いくイメージどおりのものは完成しないだろう。いやいや、だいたいそもそも宮沢賢治ですら、何回も何回も改稿しているわけだから、なにがほんとうの「ポラーノの広場」のイメージか?っていう答えもない。それとも、「ポラーノの広場」が甘美な背徳の場所であるという寓意だけをひっぱってきたのか。他の話は、はどうだろう。たとえば、「セロ弾きのゴーシュ」「春と修羅」…。

いや、そんな共通点探しなんてどうでもいい。どうでもいいと思わせる凄さがこの作品にはある。高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』で行っている哲学はそうとうの手練だ。彼にはなにか言葉を生み出すトリガーが必要であって、たまたまピュアで狂気な宮沢賢治が目にかなったということかもしれない。

絶対的な基準や根拠が欠落した世の中において、なおも求めるべき拠り所はあるのか?言葉により、人に物事を伝えるとはいったいどういことなのか?伝えたところで何か変わることはあるのか?廃墟と化した世の中で奏でる言葉を誰かが拾ってくれるのか?
義のために人を殺めることは許されるのか?ならば、この義とあの義はどちらが義なのか?そもそも、義ってなんなのか?そして「死」とはなにか?「死」を待つ気持ちは?けっして体験できることのない「死」はどんな感じなのか?こういったことを、こういったことだけを考え続けるのは、ほかにも愉しいことがある世の中いおいて正しいことなのか?考え続けたほうが、「よりよい答え」がでるのか?

もちろん、これらの難題に対する答えはでない。というか答えはない。しかし答えはでないからといって、考えるのをやめてはならない。同時に、これらのことをこれ以上ないという正しい言葉で書き出すこともできない。どんな言葉でも完全ではないから。しかし、そこに言葉がある以上、僕たちに言葉がある以上、なにかを書き出せねばならない。なぜなら、僕たちには、そこに用意されているいかにももっともらしい答え、耳元で囁かれる正しいかどうかわからないような正しい言葉への耐力の準備が必要だからだ。ときに僕たちの大切なものを掠め取ってしまうような義や感動に対抗できる物語をつくるために、考え言葉にしてみることが大切なのだ。

『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』は、最近、高橋源一郎がずーっと考え続けていることを文学の言葉に翻訳/変換しようとした作品であり、そういった意味では、試行のスタディであるともいえる。彼はボロボロになりながらも、そして大量の試作を撒き散らしながらも、そして宮沢賢治を、いやそれだけではなく日本の文学者の言葉もどんどん参照しながら、「答え」を「言葉」にしようとしている。

たとえば、こんな感じ。

「『それは、おれたちもおまえたちも、たくさん殺し、たくさん殺されたからだ。けものも殺し、人も殺す。百億もの死んだ人間や死んだ熊にとって、正しいとか、正しくないとか、そんなことになんの意味があるだろう。そいつらは、冷たい光に満ちた、変に寂しい空の下で、大きな目を見開いて、黙ってこっちを見ているんだ。どんな立派な考えも、その目のことを思うと、なんだかどうでもいいような心持ちになってしまう。』」(「氷河鼠の毛皮」)

「『あなたの書いているものを読んでいると、あなたが、あらゆることを徹底して考えようとしていることがよくわかります。しかし、なにごとも徹底しすぎるのはよろしくありませんよ。なぜなら徹底して考えるということは、そのことばかりを考えるということで、一つのことを、他の関係の中で考える、ということができなくなってしまうからです。』『おことばですが』とわたしはいいました。」(「氷河鼠の毛皮」)

「いいんだゴーシュもう『セロ』なんかひかなくても。さあ外へ出よう。外は広い外は楽しい外はなんでもある。そんな古臭い『セロ』は棄て外の空気を吸いに出よう。…………
ゴーシュはちがうと叫んで目を閉じ耳を押さえた。だがいつまでも目を閉じたままでいるわけにはいかなかった。………やがてゴーシュは彼が知っているただ一つの武器である『セロ』を手にとりひきはじめた。」(「セロ弾きのゴーシュ」)

「自分が死んでいくのが、ヒロシにはわかった。自分は『死』を『経験』しているのだ、ヒロシは思った。だから?と思った。………
おれは遺書になんて書いたっけ、とヒロシは思った。それから、
底知れぬ叡智の閃きがヒロシを襲った。
その瞬間、すべてが闇に包まれた。歌声が聞こえていた。SMAPの。夜空ノムコウ。」(「飢餓陣営」)

試作であるため多少わかりやすいのはご愛嬌。また、ここで書かれたことは、形式や筋を変えどこかで書かれているのもご愛嬌。しかし、たとえば「死」を書いているにもかかわらず「死」を書かずにわかったように「死」を書く言葉、ないしはちょっとした綺麗な教訓の言葉と対置したとき、彼の排出する言葉は、なにかを考えなければならない、と思わせてしまう。なにか、はなにかわからないが、容易ではない、ということだ。

と、えらそうなこと書いてきたけど、まだ半分程度しか読めておらず、ほんとうにそうかどうかはわからない。あらかじめ謝っておきます。すみません。でも、朝日新聞『死の棘日記』とか『四十日と四十夜のメルヘン』 (2005_04_24)の書評でも、いいこと書いてるしまあ間違いはないだろ。

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